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作品集

送電鉄塔の連なる風景

空中索道(その1)

(注 資料抜粋のため、一部旧地名で表記しています。

 ふだんはまわりの景色に溶け込んでいる送電鉄塔の連なりがこの日はよく見えた。

この送電鉄塔の連なりは山の麓でやや左に折れ、写真左に見える山を一気に駆け上がる。

 この山の向こうを流れるは庄川峡。
 庄川の源流は、岐阜県荘川村にある烏帽子岳や中山峠といわれ、岐阜県内で尾上郷川、六厩川、大白川、富山県内では境川などの流れを集め、世界遺産「白川郷」や「五箇山」の合掌造り集落の間を縫って富山湾に注ぐ。 庄川では豊かに流れる水を利用した電源開発が行われ、御母衣(みぼろ)ダムや祖山ダム、小牧ダムなど一七ヶ所の発電ダムが有り、そこで発電された電力の一部を送電するために、写真のような鉄塔の連なりができた。水ではなく電気が流れる川だ。
 この地、富山県南砺市城端(なんとしじようはな)には庄川だけではなく、黒部川の黒四ダムで発電して新愛本変電所を経た電力を大阪の枚方変電所まで送るために、関西電力・北陸電力が共同管理する重要施設「城端開閉所」があり、送電量に合わせた大きさの鉄塔が数多く見られる。
 鉄塔から鉄塔へとつながる送電線を眺めて、「城端と大阪がこの送電線でつながっている」のだと思えば、遠いはずの大阪の地が今までになく身近くなった。
 鉄塔の連なる風景を眺めるうちに、送電用鉄塔が建つ以前に物資輸送用の鉄塔が建っていたのを思い出した。空中索道という施設だ。

 かつての道路交通網、運送車両が現在のように発達していなかった時代、「祖山ダム」を始めとする電源開発が進むと、ダム建設で大量に使うセメントなどの資材は直線にして短距離で鉄道が通じた城端から運ぶため、中越線(現城端線)の城端駅と平村渡原(とのはら)の間に索道が建設され、大正十五年(1926)九月から運用した。
 城端町蓑谷(みのだに)の香戸(こうと)山に中継所及び原動所を設け、杉尾峠を越えて渡原へと通じた索道は、その後、渡原から下梨(しもなし)まで延長、昭和五年に完成した祖山(そやま)ダム、昭和七年に完成した小原ダム、昭和二十五年に完成した成出ダムなど、ダム建設に使用する資材のほとんどをこの索道で運んだ。 ロープから下がった椅子型の搬器は五分の一トン積み、搬器と搬器の間隔は三十~五十メートルほど。搬器にはセメントなどの建設資材・生活資材用と鉄塔用鉄筋の長尺用の二種類が有った。索道運行中は、各塔の車や軸受けの保守管理、荷物の積み下ろし、原動所の運転などでずいぶんと賑わった、と記されている。

空中索道(その2)

(注 資料抜粋のため、一部旧地名で表記しました。
(横スクロールで表示しています)

 索道について記述した資料は多くない。
「五ヶ山からは木炭などが運ばれてきた。風の強い日は索道の搬器が大きく揺れ、荷物が落ちる危険があったので動かさなかったという。荷物には長さや大きさの制限があり、トラックのようにはいかなかった。
 索道の動きをよくするため鉄塔の索受け車軸に油を差さなければならなかった。これは専門の職人が行った。
 彼らは軽業師のように搬器から鉄塔、鉄塔から搬器へと飛び移りながら油をさして回った。この時、反対側から来る搬器が空の時はひっくり返る危険が大きいので、重心がうまく取れるぐらいの荷物が積まれているものを選んで飛び移ったという」
(「ふるさとの山道」より 旧城端町教育センター発行)

 ときには郵便物や生活用品を、あるときには人を運んだという索道だが、私は今から五十年ほど前に動いている所を一度だけ見たことがある。
 遠い記憶になるが、
「カタカタ」と頭上から音がするので見上げると、搬器から荷物が落下しても危険が及ばないように道路上に張られたネット越しに、索道が動いているのが見え、ロープから下がった椅子型の搬器が索道の車を通過するたびに揺れていた。あの時は何を運んでいたのだろう。ほとんどが何も積んではいない搬器だったので、索道の役割も終りに差し掛かっていたのだろう。
 その後、索道そのものを見た記憶はない。
 記録によれば索道は昭和三十五年に廃止され、農地に建てられている塔から順に撤去されたという。

「送電鉄塔が連なる所に、かっては索道が通っていた」という記憶はいずれ消え去るだろう。
先には、城端線に蒸気機関車が走っていたころ使っていた、方向転換用の転車台が消え去ってしまった。そして今また、昭和の経済成長を陰で支えた電源開発の遺構が、草木の中へ埋もれようとしている。

タイトル

ここに捕捉を書きます。

タイトル

画像を使わない場合はこんな感じ

タイトル

画像を使わない場合はこんな感じ

タイトル

画像を使わない場合はこんな感じ

タイトル

 ふだんはまわりの景色に溶け込んでいる送電鉄塔の連なりがこの日はよく見えた。この送電鉄塔の連なりは山の麓でやや左に折れ、写真左に見える山を一気に駆け上がる。
 この山の向こうを流れるは庄川峡。
 庄川の源流は、岐阜県荘川村にある烏帽子岳や中山峠といわれ、岐阜県内で尾上郷川、六厩川、大白川、富山県内では境川などの流れを集め、世界遺産「白川郷」や「五箇山」の合掌造り集落の間を縫って富山湾に注ぐ。 庄川では豊かに流れる水を利用した電源開発が行われ、御母衣(みぼろ)ダムや祖山ダム、小牧ダムなど一七ヶ所の発電ダムが有り、そこで発電された電力の一部を送電するために、写真のような鉄塔の連なりができた。水ではなく電気が流れる川だ。
 この地、富山県南砺市城端(なんとしじようはな)には庄川だけではなく、黒部川の黒四ダムで発電して新愛本変電所を経た電力を大阪の枚方変電所まで送るために、関西電力・北陸電力が共同管理する重要施設「城端開閉所」があり、送電量に合わせた大きさの鉄塔が数多く見られる。
 鉄塔から鉄塔へとつながる送電線を眺めて、「城端と大阪がこの送電線でつながっている」のだと思えば、遠いはずの大阪の地が今までになく身近くなった。
 鉄塔の連なる風景を眺めるうちに、送電用鉄塔が建つ以前に物資輸送用の鉄塔が建っていたのを思い出した。空中索道という施設だ。

 かつての道路交通網、運送車両が現在のように発達していなかった時代、「祖山ダム」を始めとする電源開発が進むと、ダム建設で大量に使うセメントなどの資材は直線にして短距離で鉄道が通じた城端から運ぶため、中越線(現城端線)の城端駅と平村渡原(とのはら)の間に索道が建設され、大正十五年(1926)九月から運用した。
 城端町蓑谷(みのだに)の香戸(こうと)山に中継所及び原動所を設け、杉尾峠を越えて渡原へと通じた索道は、その後、渡原から下梨(しもなし)まで延長、昭和五年に完成した祖山(そやま)ダム、昭和七年に完成した小原ダム、昭和二十五年に完成した成出ダムなど、ダム建設に使用する資材のほとんどをこの索道で運んだ。 ロープから下がった椅子型の搬器は五分の一トン積み、搬器と搬器の間隔は三十~五十メートルほど。搬器にはセメントなどの建設資材・生活資材用と鉄塔用鉄筋の長尺用の二種類が有った。索道運行中は、各塔の車や軸受けの保守管理、荷物の積み下ろし、原動所の運転などでずいぶんと賑わった、と記されている。

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